たまには政治について考えてみる。
暗雲立ち込める日本
最近ツイッターのトレンドで不穏な政治ニュースを目にする機会が多くなっている気がする。
消費税増税とか、車に関する新しい税の導入とかが検討されているそうだ。本当に実現させる気だろうか。
ちなみに、2022年度の税収は68兆円と過去最高額を達成する見込みらしい。それなのにまだ国民から税金を搾り取ろうとするのかとネットでは炎上している。
お先真っ暗、無職の身としてはなおのことつらい。
経団連は「中途採用」を「経験者採用」に統一しようみたいなよくわからない動きをしているし、これではいざ就職しようと思い立っても決意が鈍りそうである。
「経験者」という響きはどうしたって「その業務を以前にもやったことがある」というイメージが強い。「経験者採用された未経験者」とか、頭がこんがらがりそう。「中途」のなにがいけないんだ。そんなに消極的なイメージがついているか?
えらい人たちが考えることはよくわからない。
働かないといずれ地獄を見るだろうが、働いても幸せな人生を歩めるイメージが掴めない以上、勤労意欲はますます遠くなるばかりである。
年金について
たびたび年金受給開始年齢の引き上げが話題になり、果たして僕らが高齢者になるころにはいったいどうなっているのか、はなはだ心配だ。「年金制度は崩れない!」と言っている有識者はいるものの、実感として本当にそうなのかと疑いたくもなる。
ただ、年金が老後の所得保障であることを考えると、受給開始年齢が引き上げられること自体は仕方ないことなのかもしれないと思ったりもする。
人間の健康寿命は伸びる一方だ。
それはつまり、自分で働いて所得を得られる期間が増えるということだ。
資本主義の中で、人間は商品のひとつとして市場に組み込まれている。
健康寿命が伸びるということは、人間という商品の品質が向上することを意味する。品質があがれば、それだけ長く商品を使えるようになる。
一方、福祉は基本的に働けない人々、すなわち商品としての価値が低くなった者に対して設計された制度であり、まだ働ける人間に対して与えられるものではない。
人間の働ける期間が延びるということは、福祉を受けられる年齢が引き上げられることに繋がる。
年金の受給年齢が引き上げられるというのは、そういった意味ではごく正常なことなのかもしれない。
昔の60歳といまの60歳は違う。
昔は「もう商品として使えない」とされた年齢が、いまでは「まだ商品として使える」と扱われる。働く能力のある人間に、福祉を施す理由はない。元気な人間に対して生活保護を断る理由と同じである。「あなたまだ働けるでしょ?」
……とそんなことを素人なりにつらつら考えていたら、年金の管轄省である厚生労働省も同じこと言っていた(厚生労働省[年金制度の仕組みと考え方])。
プラスの要素としては、健康寿命が伸びることにより、就労期間が延びることで、支給開始年齢を65歳に引き上げる下地が形成されたと言える。
厚生労働省[年金制度の仕組みと考え方]2.平均余命の伸長に併せた年金制度設計の見直しの経緯
驚きなのは、さらりと就労期間が延びることをプラスとして捉えている点である。
世の中は資本主義でまわっているから、労働から逃れられなくて当然と言えば当然なのだが、できれば「マイナス中のマイナスだろ!?」と反論したい。
まあ、肝心の働く場所がまともに用意されていないからこそ、問題になっているわけだが。
悲しいことに、「健康寿命が延びた。やった、人生の余暇を楽しむ時間が増える!」とはならないのがいまの世の中だ。健康寿命が伸びれば伸びるほど、人間の働かなければならない期間は増えてしまう。
「俺たちにずっと働けってか!?」に対する答えは残念ながら「YES」である。それが資本主義の在り方であり、国の方針なのだ。
これならいっそのこと、健康寿命なんて伸びなくてもいいのにと思ってしまう。
人間を商品化する資本主義が世界を支配する限り、健康の増進は人類の福音とはならないのだ。なんと世知辛い。
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