バズるコンテンツを量産している人の文章を見るたび、自分の文才のなさに絶望する。おもしろい記事も書けなければ、毎日更新もできない。質も量もダメ。びっくりするぐらい手詰まりだ。
先日のポケモンSVを1000時間以上プレイしたぼくが新作に望むことという記事は、考えがまとまらなさすぎて書き終えるまでに3日ほどかかった。3000字書くのにどんだけ手こずってるんだ……
世の中には、ほぼ毎日コンスタントに文章を書き続けている人がいる。しかも働きながらだ。一方、無職で自由な時間が有り余っているぼくは、数日に一度、文章を書き終えられるかどうかといった体たらくである。
この差はなんなのだろうか。人間としてのスペックが違いすぎやしないか。
目の前に立ちはだかる大きな壁を乗り越えようと人の本やブログに触れるうち、ぼくはあたりまえのことを見逃していることに気づいた。
文才うんぬんの前に、自分は書いてきた文章の量が圧倒的に足りないのだ、と。
優れた人を見ると、その人は最初からすごかったのだと思いがちだ。もともと才能があったから、この境地にたどり着けたのだと。しかし、そうではない。
最初からすごかったのではなく、これまでたくさんの練習を重ねてきたから、いまがあるのだ。
何年も前から毎日のようにブログを更新していたり、ひたすらXでポストし続けたり、日記のようにみんなの目に触れないところでずっと文章を書き続けていたり。形はどうあれ、常にコンテンツを生み出している人は、そうなるだけの下地がある。
たとえば、『書く習慣』の著者であるいしかわゆきさん。ライター業を営みながら、ご自身のnoteを定期的に更新している。読みやすく頭に入ってくる文章、しかもそれを短いスパンでポンポン出しているからすごい。
『書く習慣』によると、いしかわさんは中学2年生のときにブログをはじめたそうだ。大学生のときに中断したものの、文章を書いてきた期間は長い。
翻って自分はどうかというと、ほとんど文章を書いてこなかった。社会人になりたてのころ、小説家を夢見て小説を書いたことがあるぐらい。中学生から文章を書くことに慣れ親しんできた著者とは、雲泥の差である。
日ごろから文章を書き続けていると腕が上達してくることは、小説家の中でもよく話題になっている。先日も、Xにとあるポストが投稿されていた。
最初に執筆を始めたときは、10万字書くのには半年以上かかりました。
— 知念実希人【公式】 (@MIKITO_777) February 10, 2025
15年以上執筆を続けたいまは、2週間で書けます。
継続は力なりなので、作家志望の皆さんはぜひ書き続けてください。
応援しています✨ https://t.co/PQi7QhMfAd
昔は10万字書き終わるまで半年以上かかっていたのに、いまじゃたった2週間!? ものすごい変化だ。
ブログと小説とでは求められる文章の種類が違うとはいえ、書くという行為は共通している。これは希望の持てるポストだ。
もし文章をうまく書けないと感じたら、毎日書き続けよう。文才がないと絶望するには、まだ早い。そう感じてしまうのは、これまでに書いてきた量が少し足りないだけだ。
誰かの文章と比べそうになったとき、このことを思い出すようにしたい。というか、そう思わないとやってられない。
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