「見た目よりも中身が大切」だなんて言葉は嘘っぱちである。
擬態と呼ばれる現象についての文章を読んだとき、ふと改めてそう思った。
ということで、今回は見た目の重要性について書き記していく。
中身よりも見た目
擬態と呼ばれる現象がある。
生物がなにか別のものに姿形を似せることだ。
枝に化けるナナフシや、木の葉に化けるコノハムシなんかが有名だが、擬態の中でも、別の生物に化ける場合がある。
ベイツ型擬態やミューラー型擬態と呼ばれるものだ。
ベイツ型擬態とは、無毒な生物が有毒な生物に似せることを指す。
攻撃手段を持たない蛾が毒針を持つハチそっくりな姿形をもったり、無毒な蝶が有毒な蝶そっくりな見た目になる。
ミューラー型擬態とは、有毒だったり食べづらい生物同士が姿形を似せることを指す。
擬態するのは、外敵に襲われにくくするためだ。危ない昆虫にそっくりな見た目になれば、敵は避けていく。
ただ、危ない昆虫だと知ってもらうためには、実際に危ない目にあってもらい、学習してもらわなければならない。スズメバチだって、昔誰かがスズメバチに刺されて、「こいつは危ない虫だ」と学習したからこそ、ほかの人も怖がるようになったのだ。もし誰も刺されたことがなかったが、普通に虫網で捕まえようと思い立ってもおかしくない(そして犠牲者第一号になるのだ)。
だからこそ、ミューラー型擬態のように姿形を似せ、ほかの捕食者などが「この姿のやつは危険だ」と学習する機会を多く与えるのだ。
擬態とはすなわち見た目を利用して他者を欺くことである。
そこに中身なんて関係ない。
中身が蛾だろうが蟻だろうが、スズメバチのような見た目をしていれば誰でも避けて通る。
要するに、まず見た目がある。見た目は中身よりも大切だ。
「人を見かけで判断するな!」は正しい?
人を見かけで判断してはならないとよく言われるが、いやいや、それはなかなか無理な相談だろう。
個人の経験によるものか、それとも周囲の人間からの刷り込みによるものか、獲得方法には違いがあるだろうが、僕たちの中には「これこれこういった外見の人は、こういう性格の場合が多い」という認識がある。
黄色と黒の縞模様の昆虫を見たら、たとえそれが実際にはハチではなくてもハチだと認識してしまう、それと同じことだ。
しっかりした服装の人であれば、真面目な人。
髪を金髪に染め、サングラスをかけ、派手な色合いの服を着ている人であれば、なるべく関わり合いになりたくない危ない人。
そういうパターン化された認識だ。
だから、そのパターンと同じような見た目の人と出会ったとき、「こいつはこういうやつだろうな」という印象を抱く。第一印象だ。
そしてその第一印象を参考にして、その相手との関わり方を決めていく。
見た目で人を判断するのは仕方のないことだ。だって中身まで見ている余裕なんてないのだから。
相手がハチの姿を真似た無毒な蟻か、それとも有毒の本物のハチか、中身をのんびりと確かめていたら攻撃されてしまう。回避するには、見た目で判断するしかない。
人間の場合も同じだ。見た目がおかしな相手はまず弾く。
危機管理として至極当然の反応と言える。
中身の吟味はそれからだ。
「自分はこの見た目が好きだ。だからこの服を着る」ことと「この見た目だと相手に変なやつだと思われる。だからやめておく」ことを天秤にかけ、前者をとった場合、「こいつは変なやつだ。なるべく距離をとろう」と相手から認識されても、それは仕方のないことだ。
真面目だと思われたければ、そういう見た目になる努力をまず本人がするしかない。
相手がどういう見た目にどのような印象を抱くは、こちらではコントロールできない。コントロールできないことをコントロールしようとするだけ、無駄である。
この見た目に好印象を抱くように相手を変えようとするのではなく、相手が好印象を抱くように見た目を変える。本当の自分をわかってくれないと相手を責めるのではなく、自分のコントロールできる範囲で変えていくしかないのだ。
ひとつ付け加えておくと、「あいつの見た目は気持ち悪い。だから攻撃しよう」と暴力や暴言を相手に浴びせることは当然犯罪である。
とある見た目に対して、内心でどんな印象を抱くかは個人の自由だ。
しかし、その印象をもとに、行動を起こしてしまったら、それはもうその行動を起こした人の責任である。
人を殺したいと思うのはセーフ、実際に殺したらアウト。それと同じだ。
思えば僕は擬態があまり得意ではなかった。
擬態がうまくなりたい。そう思うこの頃である。
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